街 は 劇場

劇場女優・街子です。

変化の話

言動やセンス等々から破天荒なイメージを持たれることが多い。(今はそうでもないけど、たまに尖ったセンスを見せつけるらしく“うわ…”となる)

変化をもろともしないというか、個性万歳みたいに思われるけど、性根はあんまりそういうことが好きではないことに最近気づいた。

 

嗜好も思考も、恋愛も人間関係も常に“正解”を求めて生きてきた。これを着て、この考えで、この思考法で、この道で、この人で“正解”、なんの波も立たず生きていける枠にはまることにこだわっていた。

 

枠には価値とか基準とかが同じく当てはまる。何か確固たる正解に自分を無理矢理にでも当てはまればもっとよりよく、穏やかに過ごせると信じていた。もっと生きることが楽になると思っていた。

美しくなりたいという以前の話にも通じるのだけれど、枠にはまらないことは悪であったし、はみ出した部分は切り落とそうとした。そうしてたくさん自分を傷つけて、その痛みこそ生であると信じてやまなかった。なんと情けない独り相撲か。

 

恋愛もそうで、一人の相手に盲目になるのが得意である。もっといえば盲目だと信じ込むことが得意である。この人しかいない、この人と一緒に居れば大丈夫、この人しかわたしを好いてくれる人はいない。そうした“絶対”とか“永遠”みたいなのにしがみつこうとする。だけど、その盲目は所詮まやかしというか、一抹の疑問(常識がないのにいいの?、話しが面白くないのにいいの?、等々)を心が囁いているけど、気づかないふりをして、いい彼女であろうとする。

でもそれは無理矢理自分の心を捻じ曲げたものだから、どこかでその反動がやってくる。爆発する。しかも結構経ってから。

スタンプカードみたいに目をつぶったことがたまっていって、いっぱいになったら爆発する。

しかもその爆発は急なもんだから、相手にはよくわからないし、伝わらない。何かわからないけどなんか怒ってる、の認識をされて、破局する。

ひどく自分も疲弊するし、相手もひどく傷つける。

 

 

結局、独り相撲で手遅れになって、破滅するのがこれまでの諸々の人生の基本形のように思う。

 

 

思考の癖として、二元論的なのである、とも最近気づいた。

いいか悪いか、善か悪か。どっちかであれば“判断”ができる。明瞭で明確で絶対的な。

 

 

しかし、いまは人生の出来事は往々にしてグレーゾーンが存在するし、なんというか、そんな二元論で判断するのは情緒に欠ける気がしている。

別段、決めなくていいことは決めなくていいし、好きなようにやればいい、その好きを探すのは楽しいけどこれと決めた鋳型に自分を当てはまることなどそもそもできない。

 

また少し生きやすくなった。

じめじめとした、しかしもうそろそろあけるであろう梅雨である。