物語化の話
修論に向けての先生が書いてくれた板書
夏が来る。
大学院生になって一年半がそろそろ立つ。学部生の時を含めればかれこれ二年半ほど、三遊亭圓朝や怪談噺、幽霊や霊魂について考えている。
最近、物事の考え方が変わってきて、一個人がなにかを認識する時そこには「物語化」が必要不可欠であり、その物語がある理論になったり、歴史の読み解きになったり、あるいはビジネス等々、人を動かす原動力や想いにつながるのだと思っている。
これは傲慢な考えだったのだけれど、前までは来物ごとを「客観視」しなければ「正しく」認識できない、と思っていた。
裏返せば客観と正しさを持てると思っていたのである。
じゃあその客観と正しさの基準はどこから来るのか。絶対の基準などどこにあるのか。
昔、日本文学の講義で、「中庸なんてものはない、それは単なる思い込みで押し付けで、一つの暴力にもなりえる」といった先生が居て、その時は何にも思わなかったけど、いまではわかる。
わたしは上記のような物語化が得意で好きである。
自分史を語りたいし、そうやって過去と向き合って、今を解決し生きて来た。文系の論文なんてそれの最たるものだと最近気づいた。
だからこそ、大学院まで来てしまったのだとも、最近気づいた。
就活を引き続きして居て、物語化をウリに自分を売っている。物事の背景をイマジネーションすることととそこから物語のクリエイトするがわたしの強みです、と偉そうなことを言っている。
それは本当のことだし、それをできたら生業にしたいと思っている。
物語化という意識を持つと、なんでも点を線で結んで語ろうするから、当事者意識みたいなのがもてる。就活での逆質問とか前まで困窮してたんだけど、今はそこそこにできるようになって来た。
夏が来る。
修士論文も書かなければならないし、就活もしなければならないし、フリーペパーのバイトも受かったので、する。
忙しいけど、一つの生きるすべを手に入れて、少しだけ健やかに生きられる気がしている。
夏が来る。
お花を部屋に飾り始めた。