街 は 劇場

劇場女優・街子です。

『西埠頭/鵺』

 

1.はじめに

6月17日、明治学院大学のアートホールで行われた錬肉工房『西埠頭/鵺』を観劇した。
今公演は2部構成で第1部として仕舞い「鵺」が舞われた。この二つの演目を考えるにあたり「女性」という補助線を用いてみたい。『西埠頭/鵺』の舞踏家・上杉満代に注目し、感想の域を超えないが考えてみたい。
彼女の身体は悲しみや怒りをただただ一身にうけ、勝者でも敗者でもない「無」として舞っていた。

 

 

 

 

 

2.能『鵺』について

上杉の身体を考えるにあたり、両演目を切り結ぶ世阿弥の夢幻能『鵺』について整理し、分析する。今作は勝者の武勇譚ではなく敗北者である「鵺」の側から悲しみや孤独を描いている。そこには闇の中で苦しみ蠢く「排除された者」の怒りや不条理を感じる。それはひいては彼岸へと追いやられた死者たちの声へと繋がっていく。
能『鵺』のあらすじは以下である。

 

熊野から京都をめざしていた旅の僧が、摂津国芦屋の里(今の兵庫県芦屋市あたり)に着き、里人に宿泊先を求めますが断られる。僧は、里人から紹介された川沿いの御堂に泊まる。夜半、そこに埋もれ木のような舟が一艘漕ぎ寄せ、姿の定まらない怪しげな舟人が現れ、僧と言葉を交わす。はじめ正体を明かさなかった舟人も、「人間ではないだろう、名は?」と問いかける僧に、自分は怪物・鵺の亡霊であると明かし、近衛天皇の御代(在位1142年〜1155年)に、天皇を病魔に陥らせたところ、源頼政に射抜かれ、退治された顛末を語り、僧に回向を頼んで夜の波間に消えていく。
しばらくして、様子を見にきた里人は、改めて頼政の鵺退治の話を語り、退治されて淀川に流された鵺がしばらくこの地に滞留していたと僧に伝える。話を聞いた僧が読経して鵺を弔っていると、鵺の亡霊がもとのかたちで姿を現わす。鵺の亡霊は、頼政は鵺退治で名を上げ、帝より獅子王の名を持つ名剣を賜ったが、自分はうつほ舟(木をくり抜いて造る丸木舟のこと)に押し込められ、暗い水底に流されたと語る。そして、山の端にかかる月のように我が身を照らし救い給え、と願いながら、月とともに闇へと沈んでいく。

 

鵺とは、現実にはトラツグミという鳥のことを指す。能に出てくる鵺は、頭は猿、手足は虎、尻尾は蛇(平家物語では胴体が狸)という妖怪で、鳴く声がトラツグミに似ているから鵺と呼ばれたという。西洋で言えばギリシア神話にでてくるキマイラ、現代SF小説なら遺伝子操作で生まれたモンスターという位置づけだろう。
こうした化け物退治では、退治する勇者を持ち上げて、めでたし、めでたしで終わるほうが一般受けもよいし、好まれるように思われる。しかし能ではしばしば、戦記物、化け物退治の物語などをベースに、敗者、退治される者を主人公にして、滅ぼされる側の視点を描き、その悲哀を通して人間世界の影、人生の暗い側面を突きつけるのである。
能の「鵺」では、鵺という化け物の亡霊が主人公になり、救いのない滅びへ至る運命を切々と語る。勇者・源頼政に退治され、淀川に流されて、暗渠に沈められた鵺が、山の端の月に闇を照らせよと願いを込める最後のシーンが印象的であり、『西埠頭/鵺』で繰り返された「水」の要求と舞台後方につるされた暗幕にうつる水がたゆたう動きを表したライティングとも呼応している。

 

 

 

 

3.死者たちの慟哭
次に練肉工房『西埠頭/鵺』を整理してみる。闇に押し込められた鵺のような悲壮で孤独な敗者・死者たちの冥界の蓋が開き、生きている我々に言葉を叫ぶ。その叫びは最終的に音へと分解され我々観客の身体をも包み込む。その叫びは見ている観客=生きているものに、助けを求めるでもなく、糾弾するのでもなく、ただただ己の境遇を呪い、怒っているだけである。そして彼らはまた闇へ溶けて行く。

冥界とも呼べる水中に漂う悲しく暗い鵺のその背後には、有象無象の、鵺のような敗者、非業の死を遂げたものたちが蠢いている。それらは非力で暗いところに押し込められている。


しかし、一度その蓋が開けば生きている我々に自らのすさまじいほどの醜さ、怒りを我々に見せつける。目をそらすことは許さない。じっとりとした、怒りに震える目でこちらを睨み、地を這うような声で激しく叫ぶ。そうした蠢く死者たちの身体を2部『西埠頭/鵺』で切に感じた。


注目すべきは上杉満代の舞踏である。呪詛のような死者たちの叫びを一身に、ただただ受け続け、後半それを一気に爆発させる。序盤上杉は何も語らない。死者たちの群の中で能面のような無表情で立っている。その存在感はすさまじいもので、目が離せなかった。上杉は死者たちが発する悲しみや怒りのに呼応するでもなく、ただ受けるのみである。
上杉はあの舞台では何者でもない「無」の役割を担っていた。行き場のない死者たちの声、慟哭を一身に引き受け舞踏へと昇華させていた。地獄のような死者の呻きの中、それを養分にして一輪花が開花したような、ある種の救いとして上杉の舞踏があったように思う。

 

 

 

 

4.終わりに
普段日常を生きていて、自分の中の、あるいは他人の中の醜いものや汚いもの、恐ろしいものは見ないで生きている。その方が楽であるし、苦しみも悲しみをも感じずに済む。しかし、見ていないだけであって、それらは我々のすぐそばで、追いやられた暗闇からじっとこちらを見ている。
『西埠頭/鵺』ではそうした目をそらしてきた累々の醜いものーー闇・冥界の死者たちが目前で、我々を正面から睨みつけ、呪詛のような悲しみや怒りを吐露する。我々は目を背けることはできない。こらえて、彼らの存在を受け止めなければならない。そこには同情や共感などうわべの受け止め方では済ますことのできない迫真があった。
そして舞台最後、静かに死者たち(もしかしたら生者でもあったかもしれない)が闇へ帰って行く。闇は相変わらず蠢いていて、こちらを睨む気配がある。しかし、この舞台で自らの暗闇とも見つめ合ったわたしの目は少し晴れたものになっている気がしている。