街 は 劇場

劇場女優・街子です。

就職活動をしている。

 

 

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主に研究に使っている文献の本棚。だいたいこういう研究をやっています。

 

 

 

就職活動をしている。

 

あの、就活ですよ、といわずもがななスーツを着て、ちょっとの対抗心でカバンはベージュの、可愛いでもシンプルな四角いカバンで日夜街を闊歩している。

 

うまくは行っていない。

 

ESも面接もどれも嘘くさいことしか書けないし言えないのである。いい意味で綺麗にまとまっているが悪い意味でわたしがいない。誰でも書ける履歴書なのである。何社か最終面接まで行ったが、嘘くさいので落とされる。

やりたいこととはそもそも何だ。

 

社会人として「働く」とは、アルバイトとは違い「時間」プラスαで労働力を提供する。プラスαとはコミュニケーション能力だったり、創造力だったり、熱意だったり。

日本はことに新卒というきわめて無垢な存在に価値を置く。無垢といっても、生きてきた人生やそれによって身についた価値観等々は本当に多種多様なわけで、そうしたところで自分に合っている仕事が見つかってくる。また人生経験の中で見つけたやりたいことを主軸にし、それが実現可能な会社、企業へと志望する。

 

わたしのできること、とはそもそもなんだ。

 

 

いま言えることは、面接時往々にして、修士論文のテーマについての反応が薄いことである。(わたしの話し方も下手なんだと思うけど)

こう、もうちょっと、ここ一番人生で力入れてやってることだから、もうちょっと、質問とか……など生意気にも思う。論文テーマを面白がってくれるような企業を志望すべきということだろうか。

 

 

 

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趣味の棚。タコシェが大好きだった。あと刀剣乱舞のミュージカルにはまっている。(だいたいわかると思うが、街子はちょっとアレなガールである。)

 

 

 

 

 

完璧なわたしの話

 

 

 

 

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二年前の街子である。

 

 

 

 

 大学を卒業する際、四年間幽霊部員であった美術部の卒業展示に誘われた。絵はよく描いていたのだが、そうではなく、写真を撮ってみようと思った。それが一番最初の写真である。モデルはわたしで、撮影は友達。

 カメラなど上等な機械はもちろん用意できなかったのでiPhone6で撮った。iPhoneの写真技術はすごいもので臀部の接写などで鳥肌や衣服の毛玉が写った。

 

 人の美しさ(これは造型によるものを指している)は有限で、それは若さによって保たれるものだと、この頃思っていて、あまり顔はよくないので、わたしの美しさは若さと手足の細さ、あとは首の長さだと盲目といっていいほど信じていた。そしていつか醜くなっていくということも、同じくらい信じていた。

  その頃のわたしは失われていく(と思っていた)若さ、美しさに焦燥していて、せっかくの大学の卒業、何をやっても許される大学生を卒業する時の作品だから、その時の美しいわたしを遺しておこうと思った。とびきり美しくて、キュートでセクシーなわたしを。それは、いつわたしが醜くなってもいいように、生前整理のようなものだった。

 

 上のような写真を何枚か撮って、現像し百均で買った少し大きめのレターサイズのタブローに貼り付け、余白にすきなのきらいなの、とかきもちいいことがすき、とかそれらしい言葉を添えた。これら作品群のタイトルには「わたしのせいこうい」とつけた。

 

 

 たかだか二年ほど前のわたしが写るこの写真は、自分で言うのもなんだけど「完璧だった頃のわたし」のように眩しく感じる。華奢な肩だったり、ポーズの取り方とか、衣服の感じとか、ぬらぬら光る唇の感じとか、ほどいい安っぽい明かりとか、汚い机の上とか(これはサークルの部室の机である。机の上に乗るなど下品なことをしてごめんなさい。)

 この写真のシャッターが押された瞬間、わたしは完璧であった。(以前書いた紛失した指輪も、この頃はわたしの指で輝いている。自慢の一品だったし、見返してみるとよく似合っている。)

 この頃は恥ずかしいとかあんまり感じなくて、ただ衝動で生きていたようなときだったように覚えている。(そのぶんたくさんの失敗をした)

 

 二年経った今、眩しく見えるからといって、美しさが失われていることを嘆いているわけではない。いまはもうちょっと違うところに価値を置いている。もうちょっと、生活そのものに寄った価値観で生きている。たとえばご飯を美味しく食べるためにヨガに通ってみたり、おいしいお酒の飲み方を考えてみたり。

 俗っぽいといえば俗っぽいけど、そういう純朴な感じの方がわたしに似合っている。かっこいいとか美しいとかあんまり似合わないことにここ二年で気づいた。それ以前はそういう価値に無理やり自分を当てはめようとして、ひどく疲弊していた。その疲弊こそ生きることだと信じてやまなかった。燃えるように自分を「美しさ」という価値観で痛めつけながら、それでもなお美しくあろうとした。他人の目を気にし、鏡の中の自分に辟易し、美しくなければ生きている意味がないと泣いていた。

 

 そういう価値観をやめてみると、人生はもうちょっと穏やかで、健やかなものであることに気づいたのである。美しいという価値はわたしを不健康にした。ご飯も美味しくないし、人と話しても顔の造形が気になって集中できないし、そもそも楽しくない。「美しさ」などの基準で人生を振り回されるのはちょっともういい。

 見た目などという個人差ある感性はほどほど適当でほどほどいい加減なものの方が楽しい。

 

 二年前の完璧なわたしは、いま完璧とは程遠いところで焼きそばを食べ終わり、これを書いている。

 

 

 

 

 

 (5/29 加筆)

ヨガに通っている。

 

 

 前述した指輪をなくしたスタジオとは別のヨガスタジオに通っている。そこはホットヨガをやっていて、岩盤浴をやるような溶岩の上でヨガをするのである。

 わたし自身もともとあんまり身体が強くないというか、精神と身体が疲弊してもあんまり気づかず、0になるまで気づかない極端な感覚の持ち主なので、なにかしら特別なメンテナンスが必要だと感じていた。最初はマッサージに通っていたのだがそもそも身体を動かした方が手っ取り早いように感じて、始めた。

 始めてみて、気づいた身体のことについて。

 

 

・身体、精神がしんどい時、異常に呼吸が浅くなる。(息苦しい)そういう時は無理にでも腹式呼吸するとだいぶよくなる。

・逆に調子のいい時はめっちゃのびのび絶好調にいろんなところが動く。

・反るより丸まるほうが得意っぽい。

・ので内臓が潰れている時が多い。ので背筋を伸ばして腹式呼吸して内臓を膨らませる(?)感じで息をすると気持ちいい。

・カバンを持つ癖からか左の肩、腰、股関節がぱきぱきなる。

・骨盤締めて歩くとしゃんと歩ける。

 

くらい。月4回とかなのでいいペースでいけている。修論で行き詰まってる(ずっとだけど)時は身体を動かして無心になるのがいい。

 

こじんまりしたパーティーのやり方(冷凍都市に捧ぐ)

 

 

「パーティー」に参加したことがある人はどれほどいるだろうか。お店で小さいかばんをみていると「普段使いにもちょっとしたパーティーにも」といわれるあの、パーティーである。

SATCが好きなボーイズエンドガールならば一度は参加してみたい「パーティー」

 

しかしながら、そのような催しは特殊な社交がない限りあんまりないのではないだろうか。(結婚式とか二次会とか同窓会とか、ちょっとSATC的に違う気がするので除く。)

 

ならば自分で開催してしまえばいい。

しかし、わたし街子は庶民なので大きな会場も抑えられなければ、地味なので何百人とパーティーに参列してくれるような交友はない。

ならばならばわたしの身の丈にあったこじんまりパーティーをやればいいじゃないか。

 

 

 

 

1・会場

 

さて、まずどこでやるかである。たまたま五月の誕生日の仲の良い友達がいたので、2人で誕生日パーティーの名目で開催することにした。(こじんまりパーティーなので主催者と主役は同一である。)

会場はもう1人の主催者であり主役である友人・Fの家(アパートの一室)でやることにした。

誰かの部屋でもいいし、後述の飾りつけができる部屋ならどこでも大丈夫だと思う。なんならピクニックとかでもいいかも。

 

 

 

2・飾り付け

 

ただのアパートの一室で飲み食いするだけではパーティーではない。最低限のパーティーの飾り付けが必要である。

 

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ミラーボールなんか回したりもした。

 

 

アマゾンで探せばカラフルすぎない、大人可愛い感じの飾り付けがたくさん見つかる。

もちろん飾り付ける作業もわれわれ2人でやったのだが楽しかった。くす玉みたいなくしゅくしゅしたものを広げるのに苦心して、無言の時がしばしばあったがそれはそれでおかしくて笑えるので楽しい。なんならガーランドとか自分で作っちゃってもいいかも。

 

あとはお花なんかを飾ってみるとテーブルが華やかになるのでいいかも。(今回はプリザーブドにした)

 

 

 

3・食事、飲み物

 

パーティーといえば美味しいご飯とお酒である。今回は宅配ピザとデパ地下のデリを二種類、そして誕生日パーティーの名目であったのでケーキも用意した。

 

f:id:machicomachico:20170521224012j:imageここでもミラーボールがいい味を出している。

 

 

注意したいのが参加人数に応じた食べ物を用意すること。

残ってしまっては開催場所の提供者に迷惑だし、ちょっともったいなくて悲しくなる。ちょっと少ないかな?くらいでちょうどいい。今回は上記の量でちょうどよかった。

お酒は余るかな?くらいでちょうどいい。今回はシャンパン2本ほどとクラフトの瓶ビールを用意した。足らないくらいであった。

 

 

 

4・その他

こじんまりパーティーの良い点は催し・出し物も自分たちでできることである。

我々主役2人は及川光博が好きなので、そのDVDをミラーボール回る暗闇で鑑賞した。お店等では貸し切らない限りできないのでこの点はすごくよかった。

 

f:id:machicomachico:20170521224221p:image及川光博氏(かっこいい)

f:id:machicomachico:20170521224253p:imageミラーボールの回る暗闇

 

主催者や参加者の趣味趣向が合えばなにしてもオーケーだし、パーティーという名目があるから普通の鑑賞会よりちょっと気分がいいし、格式高い気がする。

 

 

 

5・反省など

 

・どうせなら、器とか、ナプキンとかこだわればよかった。(食卓ももっと華やかにパーティー感が出る)

・簡易な作られる食べ物(フランスパンにパテを塗ったり、リッツパーティー的な)もあればもっと盛り上がった。

 ・しかしデリやピザ等出来合いを用意し、極力お皿を使わないようにしたので後片付けが楽であった。

 

 

6・最後に

 

これを最後まで読んでくれたあなたには、もういい大人だし、誕生日とかどうでもいいしパーティーなどいらぬ社交など面倒くさいなどと思わないでほしい。

誕生日でいえば、あなたという大事な1人の人間が生まれためでたい日である。

祝わないとバチが当たる。

しかしわたしのように、交友が少ない他人が祝ってくれる可能性が少ない時(パーティーが開かれない)はどうするか。

それ自体なにも悪いことじゃないし、それだけ丁寧で濃厚な交友関係があるということである。

(決してパーティーがそつなくできる“パリピ”ディスではない。彼らは彼らで、交友関係が広いという長所がある。人は往々にしてそれぞれがそれぞれなりの長所を持っているのである。)

 

結論自分で催せばいいのである。

他人が開催してくれないからといじけてはいけない。あなたは限りなく自由なのだから、パーティーだっていくらでも乱発(?)できる。是非気の合う友達を少数だけ呼んでこじんまりパーティーをやってみてほしい。最初は虚しい(!)かもしれないけど楽しくなってくる。

誕生日をこじんまり特別にするだけでなんだかウキウキするし、歳を取るのもいいかな、と思えてくる。

あとミラーボールは超おすすめ。それだけでパーティー感がでます。

 

 

 

 

 

(死なない杯のために執筆)

 

 

 

指輪を失くした、その後

なにかを失くすことは同時に生きる気力がすっぽり抜けてしまうことだ。
昨日の指輪紛失事件からなんだかすっぽり、心の真ん中にあったものが抜け落ちてしまった。
昨日はその両方の喪失がとてもとても悲しくて仕方なかったけど、今は清々しい気分でいる。
抜け落ちてしまったその痕に、何か注いだり、入れたりすることができる。いつでもまた、満たすことができる。
わたしの性分として貪欲で高望みだから、満たすことは得意だ。どんどん満たして、またきっと失くして落ち込んで電車で泣いて、次の日はすっかり清々しい気分で何かをまた懲りずに求めるだろう。
それがわたしにあっている。

(4/18 執筆)

指輪をなくした。

指輪をなくした。(ついでにピアスも)(それも片方だけ)

何かをなくす時、なぜこうもあっけなく、わたしの前から忽然と、もう忽然ととしかいいようのない素早さ、唐突さで居なくなるんだろう。
大事なもののはずだった。
興味本位で行ったヨガスタジオで失くした。鍵はちゃんとかけて居た(気がする)
着替えが全て終わって、荷物も片付けさあ帰ろうかな、という時ロッカーの隅に置いて居たあのルビーの綺麗な指輪がなくなって居た。あんなに綺麗だったルビー。
確か祖母から母に受け継ぎ、そして母がわたしにくれたものだった。
大事なもののはずだった、大事にしていたはずだった。
お守りみたいにつけて、外すときは必ずお財布に入れて失くさないような仕組みで外していたのに、今日に限って、今日に限って。
せめてさよならくらい言ってくれればいいのに。
大事なものを失くしたとき、それが大事にしていなかったことの証明になってしまったようでとても悲しい。大事なもののはずだったし、大事にして、愛していたのに。
こうやって、何かなくすとき、音も立てずにそっと、忽然とわたしの前から失せていくことをわたしは学んだ。

多分、家に帰ったら必要最低限のアクセサリーを処分してしまうだろう。わたしに今、アクセサリーを愛していく自信がない。

これを書きながらわたしは泣いている。書かないと、気持ちを整理しないと涙が出ないほど、わたしの心も何かを失っているのかもしれない。

ただ、何か失くしたと気づけることはまだ救いようがある。失くしたことさえ気づかなければ心の中で、一方的でもさよならが言えないから。

(4/17 執筆 5/21 加筆)

はじめに

 街子は文系の大学院生。文系の大学院生といえば就職から逃げ道のように思われがちだがあくまでわたしは違う。やりたいことがある。考えたいことがある。

 しかし街子はそうした知的営為ときたる卒業に向けての修士論文の執筆、そして就職活動の末、精神を衰弱し、偏頭痛で通院するまでに至る。

 衰弱してみて気づいたが、どうやらわたしは「疲れ」が感じにくいらしい。躁鬱でいえば躁が強いっぽい。(こうしたメンタルのことは詳しくないし、いらぬ議論を呼びそうなのでここまで)

 衰弱する、ということは疲れたーと身体が叫んでいて、休め馬鹿野郎と言っているわけである。本人の心持ちとしてそんなに酷使した覚えがないから少したちが悪い。

 そんな中ちょっと気分の晴れる行為が「(論文以外の)文書を書く」ことであった。

 高校生の頃イマジナリーフレンズと携帯上で交換日記を書く(触れないでほしい)くらい、自分語りというか、思ったことや感じたことを書くのがとても好きだった。

 ので、今度はブログとして、書いてみようと思う次第である。