完璧なわたしの話
二年前の街子である。
大学を卒業する際、四年間幽霊部員であった美術部の卒業展示に誘われた。絵はよく描いていたのだが、そうではなく、写真を撮ってみようと思った。それが一番最初の写真である。モデルはわたしで、撮影は友達。
カメラなど上等な機械はもちろん用意できなかったのでiPhone6で撮った。iPhoneの写真技術はすごいもので臀部の接写などで鳥肌や衣服の毛玉が写った。
人の美しさ(これは造型によるものを指している)は有限で、それは若さによって保たれるものだと、この頃思っていて、あまり顔はよくないので、わたしの美しさは若さと手足の細さ、あとは首の長さだと盲目といっていいほど信じていた。そしていつか醜くなっていくということも、同じくらい信じていた。
その頃のわたしは失われていく(と思っていた)若さ、美しさに焦燥していて、せっかくの大学の卒業、何をやっても許される大学生を卒業する時の作品だから、その時の美しいわたしを遺しておこうと思った。とびきり美しくて、キュートでセクシーなわたしを。それは、いつわたしが醜くなってもいいように、生前整理のようなものだった。
上のような写真を何枚か撮って、現像し百均で買った少し大きめのレターサイズのタブローに貼り付け、余白にすきなのきらいなの、とかきもちいいことがすき、とかそれらしい言葉を添えた。これら作品群のタイトルには「わたしのせいこうい」とつけた。
たかだか二年ほど前のわたしが写るこの写真は、自分で言うのもなんだけど「完璧だった頃のわたし」のように眩しく感じる。華奢な肩だったり、ポーズの取り方とか、衣服の感じとか、ぬらぬら光る唇の感じとか、ほどいい安っぽい明かりとか、汚い机の上とか(これはサークルの部室の机である。机の上に乗るなど下品なことをしてごめんなさい。)
この写真のシャッターが押された瞬間、わたしは完璧であった。(以前書いた紛失した指輪も、この頃はわたしの指で輝いている。自慢の一品だったし、見返してみるとよく似合っている。)
この頃は恥ずかしいとかあんまり感じなくて、ただ衝動で生きていたようなときだったように覚えている。(そのぶんたくさんの失敗をした)
二年経った今、眩しく見えるからといって、美しさが失われていることを嘆いているわけではない。いまはもうちょっと違うところに価値を置いている。もうちょっと、生活そのものに寄った価値観で生きている。たとえばご飯を美味しく食べるためにヨガに通ってみたり、おいしいお酒の飲み方を考えてみたり。
俗っぽいといえば俗っぽいけど、そういう純朴な感じの方がわたしに似合っている。かっこいいとか美しいとかあんまり似合わないことにここ二年で気づいた。それ以前はそういう価値に無理やり自分を当てはめようとして、ひどく疲弊していた。その疲弊こそ生きることだと信じてやまなかった。燃えるように自分を「美しさ」という価値観で痛めつけながら、それでもなお美しくあろうとした。他人の目を気にし、鏡の中の自分に辟易し、美しくなければ生きている意味がないと泣いていた。
そういう価値観をやめてみると、人生はもうちょっと穏やかで、健やかなものであることに気づいたのである。美しいという価値はわたしを不健康にした。ご飯も美味しくないし、人と話しても顔の造形が気になって集中できないし、そもそも楽しくない。「美しさ」などの基準で人生を振り回されるのはちょっともういい。
見た目などという個人差ある感性はほどほど適当でほどほどいい加減なものの方が楽しい。
二年前の完璧なわたしは、いま完璧とは程遠いところで焼きそばを食べ終わり、これを書いている。
(5/29 加筆)